「カーナビの未来を切り拓いた男 田上勝俊」

方向音痴でお困りの方も、初めての土地に訪れた方も、カーナビ
さえあれば迷わずに目的地まで到達できる!実は、今からおよそ
30年前に、カーナビを世界で最初に世に送り出したのは、ホンダ
だった。その開発は悪戦苦闘の連続・・・
カーナビ誕生の運命は、鈴鹿〜東京450Kmをひた走る、1台の
クルマに託されたのだった。
というわけで、今夜はカーナビの未来を切り拓いた男の物語。

現在のカーナビは、人工衛星を使って現在位置を知るGPSを
利用している。元々米軍が開発したこのシステムは、1990年以降
徐々に民間へも開放されて、利用できるようになったのである。

物語はGPSなど無い1976年。次なる時代のクルマとは何かを
模索していたホンダ社内に、一風変わった企画書が提出された。
それは "誰もが行きたい場所をインプットすれば、自動的に運転し
連れて行ってくれるクルマ" というもの。
これじゃ運転する楽しみがなくなるじゃないか!と社内で猛反発を
呼んだこの企画書。これを書いた人物こそ本日の主人公、田上
勝俊、ホンダの異端児だった。

そもそも田上の入社の動機は、ジュースの自販機を作っていたから。
車やバイクとは無縁の電気部品のエンジニアだった。
そんな田上はクルマに対してこんなことを思っていた。『何十時間
も教習してからしか運転できないクルマは機械としてはイマイチだ。
家電のように誰もが買ってすぐに使えなければ一級の機械とは
言えない』

そんな田上の提案を、社内でただ1人、面白そうだと考えた男が
いた。当時の本田技術研究所専務、久米堤志だ。久米は田上の
途方もないアイディアに魅せられていた。こうして夢に向けた
プロジェクトが華々しく発進した。でも、チームは田上を筆頭に
わずか7人。エンジンやボディの設計が日の当たる部署だとすれば、
この電気部署は日陰だった。

田上がまずイメージしたのが、自分の位置と向かうべき方向を
示す地図画面だった。とはいえ、こんな夢のような機械、どこから
手をつけるべきか。まさに右も左も判らない。
しかし、田上は怯まなかった。
「私は失敗しない。誰もが途中で諦めるから失敗なんだ。
出来るまでやり続ければ成功しかない」

最初の課題はクルマノ向きをどうやって認識するか。田上は、船や
飛行機が方向を知るために使う、ジャイロの仕組みに目をつける。
なにせ、DVDはおろかCDもない時代、大容量の地図を取り
込む術がない。そこで地図出版社に頼んで、透明なシートに
地図を印刷してもらい、それをブラウン管において、その都度
手で差し替えるという方法がとられた。

5年が過ぎ、開発の目途がついたある日、あの久米から突然の電話!
三重県の鈴鹿からだった。「あのクルマに乗って、今すぐ鈴鹿に
来い!」田上は大あわてで駆けつけた。すると久米が地図シートに
○印を付けてこう言った。
「ここが東京の俺の家だ。明日ここまで俺を送り届けてくれ。」
正念場だった・・・田上は久米の自宅など知らない。
しかも距離は鈴鹿〜東京450km。久米は、この "カーナビ"
というものが、真に商品たりえるのかテストを課したのだ。

翌朝6時、運命のドライブが始まった。カーナビの未来を賭けた
450kmだ。久米はブラウン管に "X" を書くと地図を抜き取り、
「ここへ向かってくれ」と、地図のない画面で "X" だけを目指して
たどり着けるか、というテストを突然言い出した。
こんな試験を久米は次々と命じたのだ。
13時間が経過した午後7時過ぎ。車の現在位置は、久米の自宅、
東京の○印に重なろうとしていた。恐る恐る車を停める。久米は
無言だった。
田上は言った。「このあたりだと思うんですが」長く、重い沈黙。
「合格だ・・・俺の家はあそこだよ」やったぜ!

こうして世界初のカーナビ、「ホンダ・エレクトロ・ジャイロ
ケータ」は世に送られた。運転の概念を覆すそのシステムは
大きな注目を浴び、各社もこぞってカーナビ開発に乗り出して
いった。そしていまや渋滞情報はもちろんのこと、天候や災害情報、
さらには省エネルートまでも提供、「移動する情報発信基地」へと
ホンダのカーナビは進化を遂げている。

最後に、田上の信念をもう一度。
「誰もが途中で諦めるから失敗なんだ。
 出来るまでやり続ければ、成功しかない」

 

*日テレ「未来創造堂」HPページより抜粋させて頂きました。
だって・・・放送終了しちゃうんだもん!

 

 

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